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Wharton MBA 記  ~Carpe diem - 今を生きる~

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2007年 05月 12日

My hero

金曜日の日経新聞。
ニューヨークヤンキースの松井秀樹に関する記事が目にとまった。
読んでいて思わず胸が熱くなった。

同時に、なぜだろう・・・・
僕は、15年前のあの夏を思い出した。

1992年8月16日
第74回全国高等学校野球選手権大会の二回戦
明徳義塾(高知)‐星稜(石川)

その日、僕は家族旅行をしていた。
この試合を父親の運転する車のラジオで聞いていた。
中学生の僕は、この試合の行方をわくわくしながら聞いていた。

星陵高校の4番には松井秀樹がいた。
優勝候補と世間に注目されていた星陵、
それ以上に松井秀樹の打席には全国が注目していた。
誰もが、星陵高校の圧勝を信じていた。
誰もがその勝利を疑わなかった。

だが、そうはならなかった。

9回表。
3-2で一点を追う星陵。
ツーアウトながら3番打者の山口投手が3塁打を放つ。
次に控えるのは、4番打者の松井。

一打出れば、同点のチャンス。

「河野投手。頼む、勝負してくれ。」

僕も含めた全国の少年達は、その瞬間そう思ったに違いない。
だが、明徳義塾の馬淵史郎監督は首を縦には振らなかった。

そう、松井秀樹は、5打席連続で敬遠された。

3-2

星陵高校は負けた。


松井秀樹の甲子園は、たったの20球で幕を閉じた。
松井の夏は終わった。

中学校の時の自分にとって、これほどショックだったことはない。
勝つために、勝つためだけに、明徳義塾は真剣勝負を避けた。

「なぜだ・・・」

でも、松井は、明徳義塾に対し、一言も文句をいわなかった。松井は常に前向きだった。

僕は松井秀樹という男が好きになった。

プロに入り、ヤクルトスワローズの高津から放ったホームラン第一号も今でもはっきりと覚えている。

時はたち、やがて松井は巨人軍の4番に。

彼は多くの子供達に夢を与えつづけた。
僕にも多くの勇気を与えてくれた。

そして、彼は挑戦の場として米国を選んだ。
世界への挑戦を心に誓った。
My hero_a0100263_1812217.jpg

松井秀樹から学んだ一番大きなこと。
それは
「諦めないこと」、「上を向くこと」

松井は、僕にとってずっとヒーローだった。
僕が、米国行きを決めたのは、
実は”松井の世界への挑戦”から大きく影響を受けている。
「僕も行きたい。世界へ・・・」

松井秀樹さん。
あれから15年。
もう、あなたも33歳になりましたね。
これからも僕のヒーローでいてください。
お願いします。

ふとした日経の記事だったけど、
色々また考えることが来た。

ここにSecond storyが…..

1992年の夏以来、
明徳義塾の馬淵監督は、世の中から罵倒され続けた。
「あれは高校生がやる行為ではない」

僕も、そんな馬淵監督を許せなかった。

社会から痛烈に批判され、監督は、ついに責任をとり明徳義塾に辞表を提出した。
だが、その辞表は受理されなかった。
校長:
「責任をとるなら試合でとりなさい」

10年かかった。10年である。

2002年の第84回全国高等学校野球選手権大会
馬淵監督率いる明徳義塾は全国制覇を成し遂げた。

松井もこの勝利を心から喜んだという。
僕は、その優勝を知ったとき、胸が熱くなった。


「諦めないこと」、「上を向くこと」
It is more important than anything else.


by NY_since1999 | 2007-05-12 05:50


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